佐藤優さんの「日本国家の真髄」より。
「人間の理性に基づいて、理想的な社会国家を構築できるという発想自体が、1789年のフランス革命のときに、議長席から見た左側に座っていた人々、すなわち左翼の思想なのである。左翼は、人間は誰も等しく理性を持っていると考える。したがって、完全情報が与えられているならば、人間は理性に基づいて、共通の結論に至ると考える。
~中略~
これに対して議長席から見て右側に座っていた人々、すなわち右翼は、人間の理性には限界があると考える。ここで重要なのは、理性を否定しているのではないことだ。理性の限界を強調しているのである。
ただし武力は、理性の限界の外においてこそ、人間の真価が現れると考える。」
この本は、戦前の「国体」について書かれた本である。
近代合理主義が、この左翼の理性万能主義に基づいており、ポストモダンの時代にあっても、この理性でもってとらえきろうとするが、これを許さないくらいの爆発的な情報の増大があり、結果、トータリティを失い、存在が矮小化しているのが現代とも言える。
そこを小泉純一郎の新自由主義路線が後押し、お金、能力を、切り離された個人の存在に価値として、連結させた。
これに反して右翼は、古(いにしえ)に戻り、家族、地域、国、高天原と直結する天皇、そして宇宙を一つの家と見ている。従って、自分たちと異なる多次元も容認できる。
第二世界大戦への参戦を時期ではないとして、必死になって止めようとした右翼の人たちがおり、「国体の本義」は、その暴走を止めようとした人たちの中心メンバーによって書かれた。
そしてこの「国体の本義」は、戦後、GHQによって焚書された。
日本に個人の個という考え方はあったのだろうかと思う。個から理性をもって始まり、存在を問い、個を超越して世界を捉えようとする流れに対して、日本は180度違うベクトルを持っていたような気がする、というか、自分の周りや世界と同時にひとつとして感じている。日本の会社もそこが最大の強みだったはず。だから個の存在を問うことに本来は意味を持っていないような気がする。虫の鳴き声も欧米人は右脳で聴き、日本人は左脳で聴いている(角田忠信博士の証明)。昔、サルトルの「嘔吐」を読んで、どうしてマロニエの根っこで嘔吐するのかが分からなかったし、説明はできても、根っこでは分からない。デカルトを読んでも、言っていることは分かるが、根っこでは分からない。当時、周りに哲学書を読む知り合いが多かったのだけれど、すでにある歴史的知識を使っているか、トートロジーに陥っているように思えた。
今考えてみると、アルファベットを使ったディスクールは、何かを説明しきろうとする傾向を本質的に持っているような気がする。対象化して説明するツールとして言葉ができているから。
しかしながら日本語は非常に多義性を持っているし、どうみても対象化しきろうという言語ではないように思う。
昔、アメリカの女性と付き合っていたときに、彼女が英語でしゃべるときと、日本語でしゃべるときで、性格というか状態が変わるということに気が付いた。彼女の論文エッセーを読むと、なんて英語は分析に向いた言語なんだろうと思った。そして、彼女が日本語を話すとき、日本の女性よりも日本人らしくなるということに気が付いた。これは使っている言葉からきている。
万葉集で有名な山上憶良が日本は、「言霊の幸はふ国」と詠み、豊かな自然の中に自分たちの情緒を住まわせている。
桜を見てふっと体が開くときや、海の波間に洗われる心、人間の営みや感情に、自然の一つ一つが表情を持って呼応してくる文化の中に私たちは育まれている。
情緒の機微が自然と合って呼吸している。
今は、漢字と平仮名、カタカナを使って書いてはいるけれど、こんな珍しい国は無い。
元はどうなっているのだろう?
表彰文字としての漢字が、日本に入ってくるや当時の知識人が飛びつき、日本の古(いにしえ)が否定されようとした背景に、源氏物語などの平安文学が防戦し、流れをつなげている。小林秀雄さんの「本居宣長」の上巻に、このあたりの事情が詳しい。
さて、小泉政権時代の郵政民営化を、古事記に照らし合わせてみると、(「大和ごころ入門」で村上正邦さんと佐藤さんの対談集から)、イザナミがイザナキに先に声をかけてしまったので、(つまり女から男に声をかけてしまったので)、水蛭子というフニャフニャの実体がよく分からない生き物が生まれ、淡島といういつ沈んでもおかしくない陸地ができてしまった。後と先が逆になってしまった事例の顛末を古事記から預言している。
今の状況は、理性で捉えきろうするところでは解決できないところに来ているとしか思えない。